しげのさんを待っていたのは、刺激に満ちた濃密な美術三昧の日々でした。
「芸大の大学院をトップで出られた井川教授が長崎大学におられて。井川教授との出逢いが、私にとってはとても大きなものでした。様々な知識を教えていただいただけでなく、現代美術やフランスの作品や作家との出逢いを後押ししてくださったんです。井川教授のお陰で、長崎にいながら県外や国外の素晴らしい美術、芸術に触れることができたんだと思います」。
そうした刺激に突き動かされるように創作活動にも没頭。大学時代のしげのさんが描いた絵を見せていただきましたが、鮮やかな色づかい、大胆でいて繊細なライン、溢れ出るような躍動感。100号キャンバスからはしげのさんの若々しさと瑞々しさがほとばしるかのよう。
「この頃、テーマにしていたのは「木」。どんどん抽象になっていったんですけど、木の幹や枝が上昇して創るラインが出てきて、動きが出てきて…「木」の絵ばかり描いていました(笑)」。
膨大な数ゆえ保管しておくことが難しくなり、最近になってキャンバスの枠を外して整理したそうですが、しげのさんの作品の歩みを知る上で欠かせないコレクション。「木」という同じ題材にも関わらず、これだけ色彩豊かに描くことができる……さすが!としか言いようがない圧倒される作品群なのです。大学生活の4年が過ぎ、教授からの強い勧めもあって大学院へ進学することに。
「大学院は当時、日本の大学の銅版画制作において、芸大同様のトップレベルの施設が新設された新潟県の国立上越教育大学大学院にいきました。もちろん、これも父はすごい勢いで反対しましたが、奨学金をえるということで、了解してもらいました。朝から夜中まで銅版画のエッチングという技法で白と黒の世界にどっぷりはまっていました。将来は美術の先生を目指そうと考えるようになっていましたが、今も昔も美術教師は狭き門で…(苦笑)。どうなることか…と思いつつも、描いて描いて描きまくっていましたね」。
絵を描き、素晴らしい美術、芸術に触れた大学院での2年間を修了したしげのさんは、とある短大の幼稚園科の講師の職を得ました。
「短大での講義は、生徒たちは幼稚園の先生になるという明確な目標がありましたので、絵を描くこと、創ることが楽しいと思ってもらえるように指導していました。頭でっかちで知識を詰め込むより、実際に手を動かして創作する、完成した作品を飾ることで空間が明るくなる、という「美術の効用」っていうのかな、そういうものを意識して教えるようにしていました。美術を教える、という経験は初めてのことでしたが、とても楽しかったですよ(笑)」。
単に美術を教える、ということではなく「美術を“楽しむ”ことを教える」というしげのさんのスタンスはこの頃には確立されていたようです。
「教えることはまったく苦ではなかったですね。学問というよりも実技が多かったですし(笑)。大学の友人の中には、美術とは関係のない仕事に就いている人もいて、美術に関わる仕事ができているというだけで、私はラッキーだなと思っていました」。
「好きなこと」を仕事にできた喜びを噛みしめ、自らの創作活動にも勤しみ、そして28歳の時に転機が訪れます。
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